統合化学療法‐自己免疫活性化療法『Hope』
2004年5月20日 エベレスト8849m登頂に成功
下山中に急逝した妻の初七日
標高5200mのベースキャンプにて
突然の発病
『2010年6月、アップダウンの激しい往復40kmのサイクリングレースに挑戦した。祝杯ビールの後、トイレで真っ赤な血尿にびっくり。慌てて受けた検査の結果、尿管がんの疑いが強いと診断された。尿管がんは動きが早いので、たとえ開けてみて砂であったとしても早めの手術と、がんであれば抗がん剤治療を勧められた。妻の7回忌を済ませた直後の発病。三度の食事すら大変な独居老人にとって、がんと戦えるのか、疑問と不安がせめぎ合っていた。その時の自分にはがんと戦う自信はなかった。妻なしでの闘病は到底考えられなかった。目の前に相談する人がいないという孤独感から、しばらくは何も手につかなかった。がんになったと騒ごうにも一緒に騒いでくれる妻がいなかった。妻のなき後、なんとか6年間を生き抜いた自分が愛おしく、70年の人生よく頑張った、悔いはない、そんな抑うつ的な気持ちが繰り返し押し寄せていた。』
時空出版「進行がん ステージ4でも怖くない」2017年11月7日出版 より
結局のところ、71歳の自分は無治療を選択した。医師仲間、先輩から君はどうかしていると叱責されたが、自分の選択の間違っていることを認めつつ、投げやりのまま時間が経ち、耐えがたい腰痛と尿管閉塞による水腎症、そしてリンパ節転移が始まった。
痛みで覚醒
水腎症による背部の鈍痛は耐えがたく、痛みを何とかしたく相談したところ、尿がたまって膨れあがった腎臓と病巣の尿管を取るしかないと言われた。あれほど治療は拒んでいたが痛みには無条件降伏の低落だった。早々に母校の病院へ駆けつけ手術を受けた。腸骨リンパ節の郭清術まではしないでくれと文書でお願いしたが、8時間に及ぶ術後の説明では右腎臓、尿管、膀胱の右尿管孔一部摘出、腸骨リンパ節郭清と教科書通りの手術であった。右の脇腹に2本のドレーンと太い膀胱カテーテルが入っていた。主治医からは翌日から歩き、10日後に退院と指示された。この3年、投げやりに生きていた私は痛みで一挙にこの世に覚醒した。
退院後病院から連絡があり、抗がん剤治療のため再入院を強く勧められた。
抗がん剤への葛藤
医師仲間の先輩たちの中に癌で亡くなった人を何人もみている。見舞いに行き目の前に見たのは、どうみても抗がん剤の副作用に苦しむ姿だった。癌と戦うより抗がん剤と戦っているようにみえた。腹を決めるまでに1ヶ月、周囲の声に押され抗がん剤治療を受けることにした。担当医に抗がん剤低用量を繰り返し希望したが標準量で押し切られた。